先日、友人が、「昔は、部下が見よう見まねで仕事を覚えるのが当たり前だったけど、今は上司が丁寧に教えなければいけない時代なんだよなあ。」としみじみ言っていたんですね。
その時、「見よう見まね」という表現は、良い意味と悪い意味なのか、いろいろ考えまして・・・
そこで、今回は、「見よう見まね」の意味、例文、そして類語について解説をしていきます。
「見よう見まね」の意味
「見よう見まね」とは、人がすることを見て、その真似をすることを意味します。
仕事でも、料理でも何かを習得しようとした場合、熟練した人から教えてもらうのが一番の近道だと言えますが、なかなかそのようには出来ないことも多いです。
そういった時に、上手な人がやっている様子を、観察しながら、同じように真似て、実践する時に、この慣用句を使います。
この方法だと、うまくいかない時も多いので、効率が悪いと指摘する人も多いのです。
ただ、実際にやってみることによって、経験値が身に付きますし、試行錯誤しながら、覚えることは可能です。
さらに、そこから上達への足掛かりをつかむ人もいるので、その観点で評価されることも多いです。
「見よう見まね」の例文・使い方
次郎
太郎
という感じで「見よう見まね」は使われたりしますが、他にもこういった使い方があります。
- レストランで食べたレシピを再現したくて、自宅で見よう見まねで作ってみた。
- 誰も教えてくれなかったので、最初は、見よう見まねでやることから始めた。
- 彼は、見よう見まねでドラムの練習をするところから始めたが、いつしか一流のアーチストに成長していった。
- 最初は、見よう見まねでもいいから、とにかく始めることが大切だ。
- 見よう見まねでセーターを編んでいたら、変な形になってしまった。
- 有名なダンスグループに憧れ、見よう見まねでダンスを踊っていたら、かなり上手くなってきた。
- ヨガは見よう見まねでやっても、なかなか効果が上がらないから、インストラクターの指導をしっかり受けた方が良い。
「見よう見まね」の類語
「見よう見まね」と似た言葉には以下のようなものがあります。
「門前の小僧習わぬ経を読む」
「門前の小僧習わぬ経を読む」とは、寺の門前に住んでいる子供達は、いつも読経の声を聞いているので、習わなくても自然と経を読めるようになるという意味です。
このことわざが表現している状況は、自分で意識的に「見よう見まね」で覚えようとすることではありません。
ただ、良い環境があれば、「見よう見まね」で自然と出来るようになるという観点で、環境の重要性を指摘したことわざだと言えます。
門前の小僧習わぬ経を読むの意味・例文・類語を解説!「猿まね」
「猿まね」とは、猿が人の動作を真似るように、よくも考えず、むやみに他人の真似をすることを意味します。
やっていること自体は、「見よう見まね」も「猿まね」もほとんど変わりませんが、「猿まね」の方が「うわべだけを真似ている」とより批判的な意味で使われます。
「自己流で」「我流で」
自己流・我流も、「見よう見まね」と同じように、誰かから教えてもらわないという点では共通しています。
ただ、自己流や我流は、場合によっては、「見よう見まね」さえもしない時があります。
そのため、そいうった場合は批判の対象になりやすいです。
まとめ
「見よう見まね」は、指導者や先生から、手取り足取り教えてもらわず、上手な人の真似をしながら、やってみる時に使います。
直接、教えてもらうことよりは効率が悪いという点では、それほどよくないのかもしれませんが、だからといって、何もやらないことよりは良いことだと思われることが多いです。
そのような状況を踏まえた上で、「見よう見まね」という慣用句を使ってみたら良いかと思います。