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「武士は食わねど高楊枝」の意味
「武士は食わねど高楊枝」とは、貧しくて、満足に食べることが出来なくても、あたかもたくさん食べた後であるかのように楊枝を使ってみせる武士の様子を表現しながら、貧しくて恵まれない立場にあっても、気品を高く持って生きることを意味します。
普通、食べるものがなくて、お腹が空いたら、困った顔になりますし、ちょっと落ち込んだ雰囲気になるものです。
しかし、武士たるものは、そういったネガティブな様子を微塵も見せることなく、気品を持って生きることが美徳とされているのです。
また、ここでの高楊枝とは、食後にゆうゆうと爪楊枝を使うという意味です。
ただ、その一方で、見栄を張って、やせがまんをしているような人を意味する時も、このことざわは使われます。
「武士は食わねど高楊枝」は、使う人の気持ちや、その時の状況によって意味のニュアンスが変わってくることわざでもあるのです。
武士は食わねど高楊枝の使用例・例文
次郎
太郎
- 昨日、彼女に振られて心がズタズタだけど会社では何事もなかった顔をしよう。武士は食わねど高楊枝さ。
- 今月は、本当にお金がないんだけど、彼女のためなら、武士は食わねど高楊枝ということで、奮発してプレゼントを買おう!
- あの社長さんの会社、経営が火の車だと聞いているんだけど・・・武士は食わねど高楊枝という気持ちなのかなあ。
- 武士は食わねど高楊枝と言わんばかりに平然とした態度を取っていたが、内心は、それが欲しくてしょうがなかった。
- 彼は、ジャーナリストとして、どんなにお金がなくても、武士は食わねど高楊枝の精神で中立性を貫き続けた。
- 武士は食わねど高楊枝とは言うが、やはり食べるべき時は、食べるべきである。
「武士は食わねど高楊枝」に似たことわざ
「武士は食わねど高楊枝」には似たことわざがいろいろあります。
いずれも、どんなに困っていても、高いプライドや高潔な精神を持っている人は、不正や悪いことは絶対しないという意味になります。
渇しても盗泉の水を飲まず
「かっしてもとうせんのみずをのまず」と読みます。
孔子は、どんなにのどが渇いても、盗泉という名を嫌って、その水は飲まなかったという故事が由来となったことわざです。
虎は飢えても死したる肉を食わず
「とらはうえてもししたるにくをくわず」と読みます。
虎は、たとえ飢えても、死んだ動物の肉は食べないという俗信が由来となったことわざです。
鷹は飢えても穂を摘まず
「たかはうえてもほをつまず」と読みます。
鷹は、肉食の鳥であり、農家の人達が作る稲や麦の穂は決してついばまないという話が由来となったことわざです。
熱しても悪木の陰に憩わず
「ねっしてもあくぼくのかげにいこわず」と読みます。
暑くても、悪木と言われる木の陰では休まないということから生まれたことわざです。
ことわざ以外の類語
ことわざ以外にも以下のような類語があります。
- やせ我慢
- 虚勢
- 強がり
- 見栄っ張り
この言葉は、困っている時は、かっこいいことなんて言ってられないという意味ですね。
「武士は食わねど高楊枝」はかっこいい?
「武士は食わねど高楊枝」は、どんな困難な時でもプライドを高く持って生きるという意味なので、その話を聞いて、かっこいいと感じる人もいます。
しかし、その一方で、その姿を見て、「やせ我慢をしている」とか「見栄を張っている」とかネガティブな意味でとらえる人もいます。
ここら辺は、その人の価値観によって解釈が分かれてくるところがありますよね。
もちろん、必要以上に見栄を張ることは良くないことなのかもしれません。
しかし、高い目標をもって、困難なことがあっても、一喜一憂せずに、堂々と生きていく姿勢はやっぱり必要なんじゃないかと思います。
そういった意味で、「武士は食わねど高楊枝」の精神は、かっこいいと個人的には思うのですが、あなたはどう思われますか?